ベタな徹日記

ベタな日常の小さな出来事を笑いながら綴るブログです(^^)

大阪への旅立ち(^^)

谷町六丁目の文章講座(^^)🍀

少年大阪への旅立ち①

東の空から陽光が差し、駅までの線路横の道を歩き来ながら、右手の方向を見上げる。朝日に照らされた万博公園の観覧車が丘の上に白く輝いて見える。
私は、大阪に今年の6月から転勤した。

観覧車を観ながら私は、8歳の時、クーラーの無い下関の実家の古い家の2階で、川の字に家族4人寝ながら、父が少年だった私に言った言葉を思い出していた。

父が徐に「大阪万博いきたいか?」少年は、少し考えて答えた。答えるまでに時間で、3秒の時を要しただろうか。
「別に行かんでも良いよ」
父親は、残念とも取れる声で、「そうか」と応えた。

母は、間髪入れずに「お金無いんだから父さん!」と言った。
少年は、母親の言葉で、自分が父に返した言葉が正しかったのだと思った。

大阪万博が開催されたのは1970年、昭和45年。あれから46年の時が流れた。

大阪。少年の父親は、中学校を卒業と同時に、大阪へ就職した。昭和27年の春だった。
勤めた会社は、自動車の整備会社だった。父は、男2人兄弟の弟で2つ上に兄がいた。兄は工業高校の造船科を卒業し、父と同時期に当時花形の職業だった、大阪の造船会社に就職した。

二人の兄弟は、幼くして両親を亡くし、祖母一人に育てられた。2人は力を合わせるように下関で、そして大阪で生きた。

4年後、祖母が歳と伴に身体が弱り、兄弟どちらかが下関の実家を継ぐために、帰る相談が成された時、弟が帰る事になった。少年の父からすれば、苦渋の選択だったと思う。

下関に帰った少年の父は臨時雇用員として鉄道会社に勤めた。中卒、中途採用、コネ無し。何度受験しても合格しなかったと、何十年経って母親から少年は聞いた。

少年の大阪への旅立ち②
少年の父は、下関に帰り、厳格な祖母と一緒に暮らし、近所の女性と24才で所帯を持った。

次の年に少年が生まれ、4年後に妹が生まれた。父親の鉄道会社での仕事は、貨物列車の車掌だった。長大編成の一番後ろの車掌室に乗務し、下関と広島を往復した。

数十年の時が流れ、少年も父親と同じ鉄道会社に入社した。
配属された部署は、車両の車体を修繕する職場だった。父親は、少年の職場まで来てくれ、上司や先輩達に「息子をよろしくお願いします」と頭を下げてくれた。少年は、恥ずかしかった事を覚えている。

その5年後、少年は埼玉県大宮の設計室へ転勤した。図面屋としての第1歩を歩みだした。
父親は、喜んでくれた。
その頃、父親は、自分では、なりたくも無い労働組合の組合長になり、会社が変わろうとする時代の中で、管理者と組合員の間に立たされた。自分は、会社からは決して良く思われない役回りだと言う事は、十分過ぎるくらい解っていただろうから、自身の気持ちと戦っていたと思う。精神的に辛い日々を送っていただろう。組合役員の中には、人間関係の難しさから心を病んだ人もいたと聞いた。しかし、家での父親は、いつもと変わらず淡々とした様子だった。

会社は、新会社に変わり、そして平成の時代となった。父親は、51才の若さで会社を辞めた。会社が変わる中で、周囲の人の変わり様に、嫌気がさしたのかも知れない。

少年は、40才を前に広島に転勤となった。父親と偶に会うと職場や共通の知人の話をした。その頃父親は、自分が会社で出来なかった事を息子に重ね、観ていたのかも知れない。父親は、2年後膵臓ガンで亡くなった。66才だった。

父親が、15才で大阪に来てから64年の時が流れ、少年は始めて大阪へ赴任した。
父親は、あの夏の実家の2階で、息子に「行きたい」と言って欲しかったのだろうか。
出不精で節約家の母親が、反対する事は解っていただろうから、息子の行きたいと言う言葉を基に、若い時を過ごした大阪へ行きたかったのではないだろうか。

駅に着いた。階段を上る。高架の連絡通路から振り返ると、万博公園の観覧車が、遠くでクッキリと白く大きく浮かび上がっていた。

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