ベタな徹日記

ベタな日常の小さな出来事を笑いながら綴るブログです(^^)

生まれ育った下関の砂浜を歩いて

下関 室津は、自分の生まれ育った町。


人の多い大阪から帰って、一人で海岸を歩くと、海から立ち込める湯気のような雲海のような景色に遭遇した。

空ではないので、雲波海か。


波止場を歩くと、今から漁に出る漁師2人が、笑いながら身振り手振りて会話をしていた。


波止場の先まで歩き、海の中を見ると、沢山の岩が整然と並んでいた。百年も前に人力で組み上げた岩組みだろう。


今、サラリーマンとして大阪で働いて、週末に下関に帰り、自分の生まれ育った田舎町を歩きながら、いつも笑えることがある。


都会と田舎で暮らす自分にである。そのギャップに身を置いている自分に。


都会や会社で生活する、普段の自分を思い浮かべながら、波打ち際を歩き、人間は小さい存在だと自然の中で改めて思った朝。


人間なんて、小っちぇ。


これからの人生、感性を働かせ、覚悟を持って、そして誠実に生きていかなくちゃならないと。


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大阪への旅立ち(^^)

谷町六丁目の文章講座(^^)🍀

少年大阪への旅立ち①

東の空から陽光が差し、駅までの線路横の道を歩き来ながら、右手の方向を見上げる。朝日に照らされた万博公園の観覧車が丘の上に白く輝いて見える。
私は、大阪に今年の6月から転勤した。

観覧車を観ながら私は、8歳の時、クーラーの無い下関の実家の古い家の2階で、川の字に家族4人寝ながら、父が少年だった私に言った言葉を思い出していた。

父が徐に「大阪万博いきたいか?」少年は、少し考えて答えた。答えるまでに時間で、3秒の時を要しただろうか。
「別に行かんでも良いよ」
父親は、残念とも取れる声で、「そうか」と応えた。

母は、間髪入れずに「お金無いんだから父さん!」と言った。
少年は、母親の言葉で、自分が父に返した言葉が正しかったのだと思った。

大阪万博が開催されたのは1970年、昭和45年。あれから46年の時が流れた。

大阪。少年の父親は、中学校を卒業と同時に、大阪へ就職した。昭和27年の春だった。
勤めた会社は、自動車の整備会社だった。父は、男2人兄弟の弟で2つ上に兄がいた。兄は工業高校の造船科を卒業し、父と同時期に当時花形の職業だった、大阪の造船会社に就職した。

二人の兄弟は、幼くして両親を亡くし、祖母一人に育てられた。2人は力を合わせるように下関で、そして大阪で生きた。

4年後、祖母が歳と伴に身体が弱り、兄弟どちらかが下関の実家を継ぐために、帰る相談が成された時、弟が帰る事になった。少年の父からすれば、苦渋の選択だったと思う。

下関に帰った少年の父は臨時雇用員として鉄道会社に勤めた。中卒、中途採用、コネ無し。何度受験しても合格しなかったと、何十年経って母親から少年は聞いた。

少年の大阪への旅立ち②
少年の父は、下関に帰り、厳格な祖母と一緒に暮らし、近所の女性と24才で所帯を持った。

次の年に少年が生まれ、4年後に妹が生まれた。父親の鉄道会社での仕事は、貨物列車の車掌だった。長大編成の一番後ろの車掌室に乗務し、下関と広島を往復した。

数十年の時が流れ、少年も父親と同じ鉄道会社に入社した。
配属された部署は、車両の車体を修繕する職場だった。父親は、少年の職場まで来てくれ、上司や先輩達に「息子をよろしくお願いします」と頭を下げてくれた。少年は、恥ずかしかった事を覚えている。

その5年後、少年は埼玉県大宮の設計室へ転勤した。図面屋としての第1歩を歩みだした。
父親は、喜んでくれた。
その頃、父親は、自分では、なりたくも無い労働組合の組合長になり、会社が変わろうとする時代の中で、管理者と組合員の間に立たされた。自分は、会社からは決して良く思われない役回りだと言う事は、十分過ぎるくらい解っていただろうから、自身の気持ちと戦っていたと思う。精神的に辛い日々を送っていただろう。組合役員の中には、人間関係の難しさから心を病んだ人もいたと聞いた。しかし、家での父親は、いつもと変わらず淡々とした様子だった。

会社は、新会社に変わり、そして平成の時代となった。父親は、51才の若さで会社を辞めた。会社が変わる中で、周囲の人の変わり様に、嫌気がさしたのかも知れない。

少年は、40才を前に広島に転勤となった。父親と偶に会うと職場や共通の知人の話をした。その頃父親は、自分が会社で出来なかった事を息子に重ね、観ていたのかも知れない。父親は、2年後膵臓ガンで亡くなった。66才だった。

父親が、15才で大阪に来てから64年の時が流れ、少年は始めて大阪へ赴任した。
父親は、あの夏の実家の2階で、息子に「行きたい」と言って欲しかったのだろうか。
出不精で節約家の母親が、反対する事は解っていただろうから、息子の行きたいと言う言葉を基に、若い時を過ごした大阪へ行きたかったのではないだろうか。

駅に着いた。階段を上る。高架の連絡通路から振り返ると、万博公園の観覧車が、遠くでクッキリと白く大きく浮かび上がっていた。

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九州の玄関口 門司港

港の発展は、幾つかの条件が重なり合って築かれるもの。


門司港を例に取れば

海運の要

客船 フェリーの発着地

海峡 瀬戸内海と玄界灘

対岸の下関

北前船寄港地


交通の要所

鉄道 関門トンネル

日豊本線の終端地

関門橋

財閥の倉庫群

貨物列車の帰区地


地形

山が迫った深い港

ユーラシア大陸への近さ

外国への窓口

大都市 小倉を近郊に控え

本州への出口


その中で何より、海峡は大きなウェートを占めると感じます。

多くの文化が行き交い、独自の文化を醸成して行きます。


バナナの叩き売り

焼きカレー

かまぼこ

パン

ピサ

地ビール


今、5年を掛けて東京駅のように忠実な駅舎復元工事を施工しています。


駅復元により、大正時代のような駅舎に戻り、多くの観光客の方々が来られる事を期待して止みません。

 私設関門観光大使 渡辺 とおる(^^)🍀✋


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生まれ故郷

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甲山(こうやま)が北風を防ぎ、穏やかな天然の港なので、既に紀元950年辺りには、集落が出来ていた。

3つの川が海に注ぎ込むため、海水浴に適した遠浅が出来た。


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穏やかに、このまま孫の代、その後も、綺麗な海や砂浜であって欲しいと願う。



小雨の海峡

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雨模様の空だけど、厚い雲の景色も海峡には良く似合う。

流れは、東流れ。小倉方向から来る船の速度が潮に乗って早い。


ずっと通い続けてる海の見えるお店のカウンターに一人座り昼食。

シーザーサラダ、ポタージュスープ。少し雨に濡れた身体に染み渡る。


この街で、色んな事があったけれど、時間が過ぎてしまえば、今という時が在るだけ。

今も時間は刻々と過ぎ時計の針は進んでいる。


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デミグラスソースのハンバーグは、空腹な身体を直ぐに充してくれた。時間を随分とかけて煮込んだ事が一口で解る。


別に過去に拘るつもりもないし、未来に過度の期待も無い。

しかし、こうやって、昔から居る店員さんと、長い時間、笑ってカウンター越しに、初めて昔話を話す事が出来るのも、生きていればこそ出来ること。


ティラミスとコーヒーを、洒落たカップで飲んで、満ち足りた時が、また進む。


歳を取る事は、悪くないと思う。

忘れたいような事も、無理して忘れなくても時間が解決してくれて来たような気がする。


キャッシャーを過ぎ、古いエレベーターへ乗り込む。店員さんの優しい声と笑顔が店の入口を包んだ。


海峡、流れは西に変わったようだ。

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